蘭室の友

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保田妙本寺

突撃!日蓮富士門流札幌談所 鳥本雄行との遭遇Ⅵ~012

本尊は、誰が書いてもいいのか問うと、  鳥本曰く、 「法脈があればいい」  では、法脈の有る無しは、どこで判断するのかと問うと、  鳥本曰く、 「それは、管長と法論した時に出す。」  なら、仮に法脈が有り、相貌が同じであればどうするのだと問うと、  鳥本曰く、 「それは、開眼の義が無いといけない。」  と答えるので、論は、いよいよ開眼の義へと移る。  ▽開眼は誰ができるのか   鳥本曰く、  「おそらく五老僧も開眼できたと思う。」  「はっ?」出ました鳥本珍論Ⅱ。    鳥本曰く、  「ただ日興上人と同じようにやらなかったから駄目なのだ。」  これは本当か。  ■法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人(ぬす  びと)が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。(木絵二像開眼の事   文永九年  五一歳 638)  本尊に開眼がなければ、ただの木画(物質)でしか無い事は鳥本もわかっていた。  また、本尊とは当然文字曼荼羅であることも共通の認識に立っている。  ここで、論点になるのは、では本尊は誰が開眼することができるのかということになる。    鳥本曰く、  「開眼の所作を継承したのは、日興上人お一人」である。  つまり、鳥本も開眼の所作(?)を継承したのは、五老僧では無くて、日興上人お一人と言っている。  にもかかわらず 五老僧も開眼ができたという前言とは、矛盾しないのか。  そして開眼とは単なる所作の問題なのか?  鳥本曰く、  「だから相貌が同じで、開眼されていればそれでよい。」という結論らしい。  そこで  ▽鳥本師は、開眼の義を知っているのか?  と、尋ねると  鳥本曰く、 「保田妙本寺から伝持されました。」  おっと、鳥本は開眼をどうやってするのか知っているらしい。  でも、保田妙本寺で伝える所の開眼だけどね。   ▽では、保田妙本寺に伝わる開眼の義が正しいという根拠は何か。  鳥本曰く、 「信頼関係があればよい。」  「えっ 信頼関係さえあれば、誰でも開眼できるの?」  鳥本曰く、 「開眼の義は、一人から一人しかできないわけではない。」  これは、前回挙げた文証 「曼荼羅書写の大権は唯授一人金口相承の法主に在り・敢て・沙弥輩の呶々する事を許さんや」にも明らかに反する。  保田では、開眼の義は、唯授一人ではないらしい。     伝える側と受ける側の間に信頼関係があれば、誰でも開眼はできる。ただ一人しか開眼できないとは言えない、と言う結論。  と言う事は、本尊を開眼できる人が、何人もいる。  本尊の相貌が何となく同じであれば、いつでもその人が開眼し、本尊になるということか。  だから「諸宗は本尊に迷えり」となるわけだ。  まさに、本尊雑乱の原因である。  鳥本は、日蓮正宗も末寺の住職が本尊を開眼していたという論拠として、前回挙げた化儀抄をあげたきた。  しかし、化儀抄には、末寺の住職が開眼したとはどこにも書いていない。  鳥本は、本尊書写が許されるのであれば、当然開眼も許されていたはずだと勝手に邪推していたのである。  左にあらず。  開眼の義そのものを、どのように行われるのかわからない者が、勝手に邪推しても無駄である。  たとえ末寺の住職が時の御法主上人猊下様のお許しがあって、本尊を書写したことがあったとしても、開眼が許されているとは言えないのである。  浅薄な我見を入れるからこのような妄執に落ち入るのである。  さらに鳥本曰く、 「判形を書き加えることが開眼である。」との恥論を開陳。  であるならば、判形を書き加える事が開眼であるとの文証を挙げて証明してみせよ。  鳥本よ。  ■法華経を心法とさだめて、三十一相の木絵の像に印すれば、木絵二像の全体生  身の仏なり。草木成仏といへるは是なり。(木絵二像開眼の事)  ここで言う「印する」とは、あなた何をどのようにすることなのかね。  あなたはできるのだね。  であるなら、保田から伝持された開眼の義が、間違いなく正しいと証明できる文証を挙げてみせよ。  日蓮正宗では、古来以下の文証により、御法主上人猊下様お一人に開眼の義が伝授されていることで証明されている。  ■22世日俊上人『本門如来寿量品廿三座』「開眼と云うは、眼を開くと云う事なり。魂なければ眼は開くべからず、開かざれば益も無く用も無し」(歴全三―三㌻) ■26世日寛上人『観心本尊抄文段』「木画二像の草木成仏とは、謂く、木画の二像に一念三千の仏種の魂魄を入るるが故に、木画の全体生身の仏なり。(中略)当に知るべし、若し草木成仏の両義を暁(あきらめ)れば、則ち今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字及び木画と謂うことなかれ云云」(文段集四七〇㌻) ■31世『日因上人御消息』「木絵の二像は本と草木にて有り、然るを生身の妙覚の仏と開眼したもふ事は大事至極の秘曲なり、日蓮聖人乃至日因に至る迄、三十一代累(いささか)も乱れず相伝是れ也」 ■56世日応上人『法之道』「金口血脈には宗祖己心の秘妙を垂示し一切衆生成仏を所期する本尊の活眼たる極意の相伝あり」(研教二七―四七四㌻) ■67世『日顕上人御講義』「総本山においては、歴代上人より現住・日顕に至るまで、こと御本尊に関する一切はことごとく、かたじけなくも諸仏成道の刻みである丑寅の勤行において、下種本因の四妙たる妙境・妙智・妙行・妙位の正義をもって、事の一念三千の御本尊に対し奉り、開眼草木成仏の深意により、妙境妙智一体不二の御祈念を申し上げておるのであります。この行事は、書写本尊、形木本尊その他、一切を含めていささかの例外もありません。また、創価学会がいくら歯ぎしりしようとも、譲座本尊の本義による代々の法主の仏法伝承の位は、厳然たる事実なのです。そして、これは法主の権限ですから、『教師必携』に書くべき事柄ではない」(偽造本尊義を破す五九㌻)  結局、鳥本は、保田妙本寺の開眼の義が正しいとする文証を挙げよと問うても、言を左右に濁して答えられなかった。  はてさて御本尊書写の正当性も挙げれず、開眼の義の正当性も挙げれずに、どうして保田の書写本尊、形木本尊が正しいと証明できるのやら。  あなた達の拝んでいる歴代貫首の書写本尊や形木本尊も創価学会同様ニセ物だね。

-保田妙本寺