あなた 大聖人の仏法とはね・・・【札幌駅街頭折伏活動者会006】(メルマガ記事転載)
結局 知識では信心は理解できません。
最後は自分の感性で
大聖人様の仏法が正しいと信じられるかどうか。
なんか感性なんて言葉を使うと
いかにもあやふやで漠然とした感じがするのかもしれませんが、
そんなことことではありません。
いわゆる直感とかひらめきとか
と呼ばれる感覚ですね。
もうそこは理屈ではないんです。
理屈で信心を理解できるものではない。
これは、何も 文・理証を否定しているわけではありません。
よく折伏の現場で聞くことではありますが、
信心决定した人に、
「なんで信心をする決意をしたんですか?」と聞くと、
紹介者の確信ある話だったり、
紹介者の人柄・御住職のお人柄であったり
そこに何か理屈を超えた心に響くものがあったから
信じることができた。
と答える人が多くいます。
必ずしも大聖人様の仏法が正しいと理解できたから
という訳ではありません。
もちろん、話だけを聞いて、
いくら御書を紐解き、
教学を駆使しようが
それだけで大聖人様の仏法が理解できるものではありませんよね。
逆に知識や理屈だけで大聖人様の仏法を理解できたと言う人があれば、
そちらの方がおそろしい。
驕慢(きょうまん)謗法になってしまいます。
だから、多くの創価学会員が、
「創価学会のニセ本尊を
なぜニセ本尊と気づかないのか」
日蓮正宗の信徒から見れば、
ホントに不思議なのではありますが・・・。
それは、まさにこの知識や理屈で
理解できるものではないからなんです。
僕もずーっとこれが不思議でしょうがなかった。
でも、心理学や脳科学、行動経済学を学ぶことで、
だんだんと理解できるようになってきました。
結局
「人間は自分の信じたいものしか信じることができない。」
ということに。
だから、
創価学会が正しい
世界に広宣流布しているのは創価学会だけ
池田先生は世界中から顕彰されている偉大な人物
池田先生と創価学会は間違いない
今までもこれからも池田先生と創価学会についていく
こういう思考を持っている人は、
例え 僕が何を言おうが、
自分の「創価学会・池田先生 命」の思考から
抜け出せない。
ここが破られると、自我が保てなくなり、
非常に精神的に不安定にならざるを得なくなるんでしょう。
だから、自分の思考に都合の悪いものは、見ようとしないし
自分の信じているものが間違いであることを認めようとしません。
きっと、
本当に学会作製本尊は正しい本尊だと信じて疑わないんでしょうね。
僕は、こういう自分の信じているものを
客観視できる人とできない人の違いが、
創価学会の誤りに気付ける人と気づけない人の違いになるのだと
思いますけど・・・。