ある創価学会非活壮年部の本尊儀を破折する
まず彼が御本尊について言及しているところを表し、逐次 破折を加えることにしましょう。
非活壮年部:
まず始めに御本尊には「力」はあるかという事。
これについて、僕は「御本尊のみ」には力は無いと思っています。日蓮さんの御本尊というのは「観心の本尊」であ り、その力用の根源はあくまで御本尊に向かう側の「己心の中に内在するもの」だと考えています。
破門後の創価学会の主張の典型ですね。教宣ハンドブックに出ています。もう少し彼の主張を引用しますか。
非活壮年部:
過去に第二代の戸田会長の以下の指導を聞いた事があります。
「御本尊の前にサンマを置いて”焼いて下さい”といくら祈っても魚は焼けない。魚を焼くという行為は自分がしなくてはならない。そしてその時にどれぐらい焼けば良いか等の智慧を御本尊は与えてくれる」
つまりは何かを祈ったとしても、その祈りを実現する為の行動というのは、自分自身が行わなければいけない事であり、その為の智慧を己の中から出だすという事は御本尊によって可能となるという事だと思います。
この事について、日蓮さんは御書で以下の様に言われています。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり」(日女御前御返事 1244ページ)
つまりは御本尊に対してお題目を唱えるその「胸中」にこそ、本当の御本尊は存在するものであって、その胸中の御本尊にこそ、すべての力の根源があるという事です。
そして私達が日々の勤行で拝している御本尊とは、この己心の御本尊を映し出す為の「対鏡」としての位置づけと考えています。
まさに能所の立て分けを知らない我見ですね。
これは日寛上人の「文底秘沈抄」で破折できます。
「夫れ本尊とは所縁の境なり、境よく智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って 正からず。」
とあるように、「対境」(彼は「対鏡」)となる御本尊が正しくなければ、智も行も正しくない。つまり考えも 行動も正しいものにならない。と仰られているのです。
彼の言うところの「すべての力の根源」なる「御本尊様」などニセ物を拝んでいる限りありません。いくら拝 んでも出てこないというわけです。
また、彼の言う所の「すべての力」が「己心の御本尊」にあるとの邪見は、同じく日寛上人の「観心本尊抄文 段」において破折できます。彼は「仏力」「法力」「信力」「行力」の何たるかを知りません。
「当に知るべし、蓮華は水に依って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。若し水無くんば 何ぞ信行を生ぜん(中略)我等法力に依って信力・行力を生ずといえども、若し仏力を得ざれば信行退転更に 疑うべからず」とあるように、
私たちの「信力」「行力」も御本尊様の「法力」が無ければ得られないとはっきり仰っています。
だから「仏力」も「法力」も無いニセ本尊を拝んでいる彼に「信力」「行力」など出てくるわけがないのです。
自分にこそ「すべての力」があるのだという増上慢の極みです。