結果として訪れる現証(メルマガ記事転載)
1、結果として訪れる現証
「創価学会が正しい、絶対だ。だから幸せになれる。」のか。
「日蓮正宗が正しい、絶対だ。だから幸せになれる。」のか。
このメルマガの読者なら一度は考えたことのある話だろう。
これを正義感だとか、理念とか、そういうものだけで語るのであれば
「さもありそう」に聞こえはするけれど、現実性はとても低い。
例えば創価学会員と法華講、そのどちらの方に
犯罪・病気・経済苦・自殺・精神病が起こる「確率」が高いだろうか。
データとして数値化することはできないので、
あくまで僕の実感と脱会してきた人の体験談などを聞いていると、
不幸な現証に喘いでいるのは、創価員の方である。
(これは創価と法華講 両方に所属した経験のある僕だから言えるのであって、
この反証は創価員には、言えない。)
創価学会が正しいか、日蓮正宗が正しいかというのは、
「どちらの人間が正しいか」という教義上の議論の論争であって、
現実的に何が起こるのかと言う事を議論する際には、あまりに抽象的で、大切なものを見失う。
大事な事は、現証が先か文・理証が先かという議論に踏み込むことではなく、
ただ事実として「そういう(不幸な出来事の起こる)確率が高い世界ができている」ということを
冷静に認識する事である。
だだし、大聖人様は
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」
(三三蔵祈雨事 新編 八七四)
と どちらがより大事かはっきりお示しですよね。
この「事実として」つまり「結果として」という現証の部分が非常に大切で、
創価教宣部はその背後に ある文証や、因果関係を究明する理証に興味がある生き物だが、
僕らは通常そういう 興味はあまりなく、
単に「不幸になる確率が高くなっている」ということを理解しておけばよい。
「井の中の蛙」というように、創価員は目の前の創価村というコミュニティーの世界でだけで
現実を認識しているのであり、周りの現実で起きていることを客観的に見る事ができなくなっているのである。
創価員は、自分では正しく世界を認識しているかに思っているかもしれないが、
それはあくまでも「創価」という「フィルター」を通してでしか世界を見ていない
という事実を自ら理解していない。
この創価というフィルターを掛けられていることを、「洗脳」というのである。
さらに、残念ながら、バカに変化はよく見えない。
なぜなら、バカというのは短期的に しか物事を見れない一方で重要な変化とは最低でも数年、
長ければ10年単位 で起こるからだ。
創価学会が宗門に破門されてから24年。
破門されて数年は、「破門されたからと言って別に不幸になっていない。
周りの学会員もみんな元気だ。」と言ってきた創価員幹部も、
今ではあちらでもこちらでも起こる創価員の不幸な現証を否定することができなくなっている。
(この事実については、樋田さんとの対談動画でも語られていたことである)
バカは歴史に対するリスペクトがない。だから歴史から何も学ばない。
過去 日蓮正宗から離れて行った者の末路が どのようになっていったのか。
現代が歴史から離れ、特殊な時代であると錯覚している。
これは、現代のバカにも当てはまる。
大聖人様が
「先づ汝権教権宗の人は多く此の宗の人は少なし、何ぞ多きを捨て少なきに付くと云ふ事、
必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず。賢善の人は希に愚悪の者は多し。」(聖愚問答抄 新編401)
など数々の御文の中で、警鐘をならしていること、
それはそういうバカが社会の多数派を占めているという歴史の必然でもある。
リストラされても、家庭不和でも、離婚しても、難病でも、自殺しても、うつでも、引きこもりでも、
精神病でも、犯罪者になっても、突然死でも、火災・犯罪にあっても、仕事が見つからなくても、
最終的にみんなが幸せな人生であると言うならばそれでよい。
でも、とてもそうは見えないことについて、これからもメルマガに書いていきたいと思っているし、
この僕のメルマガを読んでいる人が僕がここで言っているバカではないと思う。
今年 日興上人御生誕770年の佳節を迎え、
平成33年日蓮大聖人御生誕800年法華講80万体制へ向け、
このメルマガを各自でうまく利用して、来るべき未来へ向かって
軽やかに楽しく信仰ができれば、こんな嬉しいことはないです。