蘭室の友

一天四海本因妙広宣流布と自他の進化を目指す

対創価学会

分身散体の悪用(メルマガ記事転載)

昨年秋の創価学会会則改変において、 弘安二年の本門戒壇の大御本尊様を 「受持の対象にしない」 と明言したことについて音声を録りました。 この会則改変についての音声は、 昨年末に前半、そして今年に入ってから後半を配信しました。 今回は、その時の音声の補足記事になります。   <分身散体の悪用>   平成14年の会則改変ですでに「本門戒壇」の文字を削除したときに   日蓮正宗教学部から出された文書の中   http://www.nichirenshoshu.or.jp/page/jpn/p-deta/sokagakkai/soka_2j.htm      で書かれていますが、   「三大秘法抄」「一期弘法付属書」また「六巻抄」に富士山に戒壇を建立すべきと   明示されているわけです。      にもかかわらず、原田会長は、特定の場所に安置されている戒壇が根本の本尊であることを   否定する。      創価学会は「御書根本」と言うならば、   なぜ富士山に戒壇を建立することが御書で明らかなのに、   戒壇なかんずく本門戒壇の大御本尊様の場所が特定されていることを否定するのでしょうか。      それはただ 大石寺御安置の本門戒壇の大御本尊様を否定したいがための、言い訳にしかすぎない   のは明らかですよね。   ここで、本門戒壇の大御本尊様と各家庭の本尊の例えを「電源と端子」になぞらえ、そんな本尊観は   世界広布の上では阻害の原因だと言っています。   つまり世界中から大石寺に登山することは、   場所も遠いし面倒くさいじゃないかということを言いたいのですね。   では、阿仏坊が遠く佐渡の地から身延の大聖人様のもとまで高齢の身を省みず   参詣されたことも 今は時代遅れだといいたいんでしょうか。   この原田発言には、本門戒壇の大御本尊を軽視し、各家庭の本尊で事が足りるとするのは   こういう理由があるからなんですね。   「分身散体」という教義があって、   それは、他土の衆生のために仏がその影の姿を十方にあらわすこと   を言うのですが、これを自分たちに都合のいいように解釈しているわけです。   「分身散体」の意義があるからといって、「他土の衆生が分身の仏(家庭の本尊)を拝み、   本仏(大御本尊)を拝まなくてもいい」   だとか、「本仏(大御本尊)より分身の仏(家庭の本尊)の方がありがたい」ということにはならないわけです。   だから各家庭に御本尊様があるからといって、本門戒壇の大御本尊様を拝まなくてもいいという   ことは、仏様の御仏意に背く行為になるんですね。      こういう教義を逸脱した「分身散体だからいいじゃないか」という考えが   この発言の根底にあるわけです。

-対創価学会