ある創価学会非活壮年部の本尊儀を破折する③
次にニセ本尊についての彼の主張です。
非活壮年部:
1、日寛上人が授与した一機一縁御本尊
僕はこの言葉を聞いた時、とても複雑な思いがしました。
まず第一に「一機一縁の御本尊」という事ですが、この言葉、過去の創価学会の教学の中では沢山聞いた事があります。それはまだ「僧俗一致」という時代で、創価学会も宗門と協調路線を歩んでいた時代の時です。
ここで法華講のお方は、創価学会が授与する御本尊について以下の様に仰っています。
「下野国小薬邑本如山浄圓寺大行阿闍梨本證坊日證授与之」と認められている、日寛上人が授与書に認められたお方に与えられた「一機一縁の御本尊」だ
という主張。
この主張に対して、僕としては2点の疑念があります。
「一機一縁」に対する言葉は「万機万縁」という事ですが、そもそもの話で日蓮さんの御本尊については、以前に宗門側からも聞いた内容として「一閻浮提総与の大御本尊」以前の御本尊について、それぞれの信徒毎に授与した「一揆一縁」という意味合いであると聞いています。
そして日蓮さん以降、日興上人からは日蓮さんの顕した御本尊を「書写」する事であって、それはとりもなおさず「万機万縁の御本尊」の書写であるはずです。何故それを「一機一縁」という言葉で断じてしまうのでしょうか?
つまりは日寛上人も日蓮さんと同じく、機根に合わせて御本尊を書写分けしたという事ですか?
はい では彼が法華講の主張としている事について2点の疑念があるそうなので、その疑念とやらを破折しましょう。
まず彼の御本尊についての認識が最初から誤っています。これも元々は彼の我見が根本になっているのが原因です。文末「~であるはずです。」君の我見ではなくて、せめて御書ではこう書いてあるが、どうなのだと文証あげて言えませんかね。
まず、日興上人からは、「万機万縁の御本尊」の書写であるはずです。誰が言ったのそんなこと。自分の勝手な解釈でしょう。ここがまず大間違い。前提条件が誤っているので、それ以下は全て論が成り立ちません。
まず「万機万縁の御本尊」とは、大聖人様出世の本懐たる弘安2年10月12日におあらわしになった戒壇の大御本尊様のことです。他に「万機万縁の御本尊」様なんかありません。世界で唯一なのです。それを彼は 後の御法主上人猊下様は「万機万縁の本尊」を書写したのだから全て「万機万縁の本尊」なのだと言っています。この考えが誤っているのです。
後の御法主上人猊下様は「万機万縁の御本尊様」たる「御戒壇様」の御内証を書写されているのであり、だからと言ってすぐに書写された御本尊様が「万機万縁」とはならないのです。それで誰に与えられたかを示すために書写された「御本尊様」には、その対告衆を表す授与書きがされているのです。この誰々に与えた御本尊様というのは、全て「一機一縁」の御本尊様です。
これを彼は知らないのですね。こういう次第も知らずに、さも知ったかぶりしてるとこが慢心この上ありません。
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