本門戒壇の大御本尊を拝むな
大御本尊は受持の対象にしないという邪義
昔は大石寺にある本門戒壇の大御本尊様を信仰の根本にしていたってきいたけど・・・。
平成26年に創価学会は会則を変えて、本門戒壇の大御本尊様を信仰の対象にしないって明言したんだよ。
信仰の根本対象を変えるということは、
創価学会が統一教会と同じような新興宗教になったから
- 都合が悪くなると会則を変える創価学会
- 大聖人様の出世の本懐を捨てる
- 人法一箇じゃないよね
- 御歴代上人の御指南と言ってること違う
- 牧口・戸田会長の指導とも違う
- 創価学会の信心がとうとう崩壊した
都合が悪くなると会則を変える創価学会
平成14年の会則改変では
創価学会では、平成26年の会則改定の前に平成14年にも会則を変更しています。
それまでの会則には、
「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている
弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊を根本」(旧会則第3条)
「本門戒壇の大御本尊を本尊とし」(旧規則第3 条)
と明確に本門戒壇の大御本尊様を信仰の根本対象にすると書いています。
それを、このように変更しました。
「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」
(新会則第2条・新規則第 3条)
これを見てもわかるように、
大御本尊様が大石寺に安置されていることをぼやかそうとしていますよね。
また、「本門戒壇の大御本尊」を「三大秘法の大御本尊」と言い換えました。
大聖人様の仏法においては、確かに三大秘法は、教義の根幹をなす教えではあります。
ですから、他の日蓮宗各派でも「三大秘法」と言う言葉を使っているわけです。
ですが、他の日蓮宗各派には相伝がないため、
「三大秘法」と言ったところでその実体は何だかわからないんですよ。
とうとう他の日蓮宗と同じになったか創価学会
日蓮正宗では、「三大秘法」の法体を「本門戒壇の大御本尊様」と明確に説いています。
創価学会は、他の日蓮宗と同様に三大秘法という言葉を使って、
本門戒壇の大御本尊様というニュアンスを薄めようとしていることが、
バレバレですね。
まぁ、すでに平成3年に日蓮正宗から破門されて以降、
創価学会員には、大石寺に参詣させまいとしてきたわけですから。
ほぼ全ての学会員は、平成3年以降大石寺に参詣し、
本門戒壇の大御本尊様の御開扉を受けたことはないでしょう。
それから11年経ちましたから、
もう創価学会員も大石寺や本門戒壇の大御本尊様への思いが、
だいぶ薄らいできたかなと判断したんでしょうね。
平成26年の会則改変では
そして、それから12年経って、平成26年に再度会則を改変しました。
今度は、
「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、」
(会則第2条)
と、「大御本尊」という言葉もとうとう削除しました。
これで完全に「三大秘法」と言う他の日蓮宗と同じような言葉だけになり、
結局「三大秘法の南無妙法蓮華経」って何なの?
ってことになったんですね。
あっ、わかった。宇宙の根元の法とやらですよね。
でもそれってどこにあるんですか?
キリスト教の言う神とあんまり変わんないと思うんですけど。
さらに、原田会長は、
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」
とはっきり公言しました。
はい、これで創価学会は完全に詰みました。
本門戒壇の大御本尊様を唯一の本尊と信じてみんな信心してきたの
に、もう信じる対象にしないって言っちゃったもの。
でもいいんだよ。家にも御本尊があるから、関係ないよ。
あぁ、例のニセ本尊のことですか?
なぜ創価学会作成の本尊がニセ本尊なのかは、こちらの記事をご覧ください。
いくら家にも本尊があるからと言っても、所詮ニセ本尊を拝んでも、
幸せにはなりませんし、幸せになるどころか不幸な現象が次から次へと起こる
だけだよ。
大聖人様の出世の本懐を捨てる
大御本尊様は大聖人様の出世の本懐
本門戒壇の大御本尊様が大聖人様の出世の本懐であることは、
すでに色々な御書に説かれているとおりです。
「聖人御難事」には、
「余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」(御書1396)
とあり、弘安2年10月12日に本門戒壇の大御本尊様を御図顕されたことを書かれています。
また、第26世日寛上人は、「観心本尊抄文段」において、
「問う、弘安の御本尊、御本懐を究尽(くじん)するや。答う、実に所問の如し、乃ち是れ終窮究竟(しゅうぐくっきょう)の極説なり」
とあり、これらの御文からも、
大聖人様の
出世の本懐は、「弘安2年10月12日の本門戒壇の大御本尊様」
であることは、間違いありません。
さらに、日寛上人様は、
「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是三大秘法の随一なり、況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段197)
と示されているように、
本門戒壇の大御本尊様は、究竟中の究竟の御本尊様
なのです。
しかるに、創価学会は、この本門戒壇の大御本尊様を信仰の対象にしないと、
明言したことにより、大聖人様の出世の本懐を捨てたことになるのです。
人法一箇じゃないよね
人法一箇の法義
人法一箇とは、人本尊と法本尊が一体であることをあらわしています。
人本尊はもちろん、宗祖日蓮大聖人様です。
そして法本尊とは、事の一念三千の南無妙法蓮華経であり、
人と法は一体であると説かれます。
創価学会が編纂した「仏教哲学大辞典」にも、
「日蓮大聖人の仏法において、人本尊と法本尊は、その名は異なるが、その体は一つであること」(該書第三版1320)
と説明しています。
人本尊とは、「久遠元初の自受用身」である末法の御本仏日蓮大聖人様で
あり、
法本尊とは、「本有無作の事の一念三千の南無妙法蓮華経」
であり、法即人、人即法の御本尊をあらわしています。
つまり、本門戒壇の大御本尊様は、
事の一念三千の南無妙法蓮華経であり、日蓮大聖人様である
ということです。
にも関わらず、創価学会は、
人法一箇の本門戒壇の大御本尊様を信仰の対象にしないと言ったのですから、
それはどう言うことかと言うと、
日蓮大聖人様を信仰の対象にしないと言ったのと同じこと
になります。
大聖人様を末法の御本仏と仰ぎながら、本門戒壇の大御本尊様に手を合わせないと言うことは、
もうすでにその時点で矛盾しているわけです。
人法一箇なんだから、本門戒壇の大御本尊様を拝まないということは、大聖人様を拝まないということと同じだから。
創価学会はホント残念な新興宗教に成り下がったんだね。
御歴代上人の指南と言ってることが違う
第二祖日興上人
日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし
第十四世日主上人
大石寺は御本尊を以て遺状と成され、是れ即ち別付属唯授一人の意なり。大聖より本門戒壇の御本尊、興師より正応の御本尊法体御付属なり
第二十六世日寛上人
本門戒壇の本尊は応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり
第五十六世日應上人
戒壇本尊の造立は宗祖出世の本懐にして一期弘通の大事なり
第五十九世日亨上人
一期の弘法即三大秘法、三秘の中心即本門戒壇の大御本尊である
第六十世日開上人
吾が総本山に安置し奉る本門戒壇の大御本尊は、宗祖大聖一期の大事、本門三大秘法の随一にて在すなり
第六十六世日達上人
宗門の信仰の対象は、すなわち弘安二年、大聖人様のご本懐の戒壇の大御本尊様であります。そして、その大聖人様はこの戒壇の大御本尊様を御建立あそばされ、すなわち大聖人様即戒壇の大御本尊様であります
代々の御歴代御法主上人猊下様と創価学会の言っていることは、全く違うんだね。
牧口・戸田会長の指導とも違う
まさか永遠の指導者である初代牧口先生や二代戸田先生の言っていることに逆らうようなことはしてないよね?
初代牧口先生
御本尊の中、総与の御本尊と称して、大石寺に伝えられる大御本尊を信じ奉る者が正しい信者である
二代戸田先生
もっとも完全無けつなる仏法が正宗なのである(中略)私たちは無智な人々を導く車屋である。迷っている人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くのが学会の唯一の使命である
あぁ、たぶん本心じゃなかったと思うけど、池田大作のかつての言葉も紹介しようかな。(笑)
第三代池田大作
大聖人様はどのようにおおせになったのか。末法において成仏する道は、絶対の幸福
生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが
日蓮大聖人の出世の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであ
ります。
大作さん、言ってることとやってることが全然違うじゃない。
これを自語相違と言うんじゃありませんか。(笑)
牧口先生も戸田先生も怒ってるだろうなぁ。
創価学会の信心がとうとう崩壊した
創価学会はそもそも日蓮正宗の信徒団体でしたよね
創価学会はその設立のときから、
日蓮正宗の信徒団体として、日蓮正宗の教義を守ることが、そもそも設立のときの、お約束だっ
たわけです。
その経緯は次の記事に詳しいですので、ご覧ください。
池田大作は、会長就任式のときに、こうスピーチしました。
わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本
尊様にお仕え申し上げ、御法主上人猊下に御奉公申し上げることが、学会の根本精神
であると信じます。
こんなこと言っていたにも関わらず、
御法主上人猊下様を誹謗中傷し、
果ては、本門戒壇の大御本尊様を信仰の対象にしないだなどと、
どのツラ下げて言ってるのでしょうか。
本門戒壇の大御本尊を拝むな まとめ
結局、創価学会は、日蓮正宗から破門されて以降、
本門戒壇の大御本尊様を拝むことができなくなりました。
学会員の本門戒壇の大御本尊様への渇仰恋慕の思いを踏みにじり、
最終的には、会則を改変して信仰の対象にしないなどと明言することになったのです。
これまで見てきたように、人法一箇なのですから、
弘安二年十月十二日御図顕の本門戒壇の大御本尊様を拝まないと言うことは、
日蓮大聖人様を信じないと言っているのと同じことです。
過去の御歴代上人様の御指南にも反し、
初代牧口会長、二代戸田会長の指導にも反しています。
さらに、過去に池田大作自身が指導していたこととも矛盾しています。
もう創価学会は何が正しい信仰なのか全くわからなくなった良い証拠です。
こんな創価学会にだまされたままではいけませんよ。