創価員にみる大衆性(メルマガ記事転載)
前回のチラシ撒きみたいな活動の具体的なあり方(各論)ではなく、
総論的な思考の部分をシェアしたいなぁと思います。
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1、「大衆」とは
2、 創価学会員=大衆
3、 少数派としての法華講
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1、「大衆」とは
あなたは、「大衆」と言われて何を連想しますか?
できれば ちょっと考えてから 次 読んでくださいね。
↓
↓
↓
準備は いいですか?
大勢の人・民衆・みんな・一般の人と
いうような意味でしょうか。
ならば あなたは「大衆」ですか?
「大衆の反逆」という本を書いた哲学者のオルテガは、
その著作の中で「大衆」をこう定義しています。
「大衆とは、みずからを、特別な理由によって、
ーーーよいとも悪いともーーー評価しようとせず、
自分が<みんなと同じ>だと感ずることに、
いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じて
かえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」と。
さらに、大衆の特性として
「大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、
資質に恵まれたこと、選ばれた者をすべて圧殺するのである。
みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、
排除される危険にさらされている。」
ここまで読んで 何か 「大衆」って わかってきました?
私達の知る人たちの中に、
オルテガの言う「大衆」にそっくりな人たちいませんか?
そう 私は、オルテガが語っている「大衆」というのは、
まさに「創価学会員」のことだって思うんですよね。
(ここは「顕正会」に置き換えてもいいかも。)
2、 創価学会員=大衆
自分のしていることが、正しいか間違っているかの判断を
自らしようとしないで、
創価学会という「組織」の一員であること、
そして「組織」から言われている事(やらされている事)を
無条件に受け入れようとしている姿が
まさに創価学会員そのものだと思います。
そして 自分たちと違う人、自分たちと同じように考えない人を、
排除しようとするところなんか もう 全くその通りではないですか。
そういう意味でも 私達は、
「大衆」であってはならないと思います。
いつの間にか 「みんなと同じ」だからそれでいい。という
感覚でいると、知らず知らずのうちに「大衆」化してしまうんですよ。
創価学会ではよく「民衆」と言う言葉使われていますが
これは「大衆」と同義または類義語なんですね。
このことからも、まさに創価学会がいかに
「大衆」の集団であるか、と言うより
「大衆」であることを目指している団体だということが
よくわかりまよね。
平成2・3年に第二次宗門問題がおきたとき、
「何で自分は、何の疑問も持たずに創価学会の中に居続けたのか」と
今 あらためて思うと、まさに「大衆」の中の一人だったんだなぁと
思うわけです。
3、少数派としての法華講
さらに「大衆」をもっと大きな枠でとらえれば、
それは未だ正法を信じていないすべての一切衆生とも
言えますよね。
だから私達は、「大衆」でないことを特徴とした集団であるべきだし、
ある意味、常に少数派であるべきだと思うんです。
これは何も一切衆生の成仏・広宣流布を否定する事では
ないんですよ。
少数の人間が、多数の人々から分離するために団結するという
ことなんです。
これは、まさに今の法華講のあり方と一致するなぁと思います。
各支部(少数派)を形成する事で、
多数の人々(大衆)から分離するというのは、
広宣流布を目指す上でも、
とてもいい組織のあり方なんじゃないですかね。
今回は少しアカデミックな感じ(?)で
考えている事を伝えたいなぁと思い書いてみました。